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[追悼] 小田会長の思い出

クラフトビア・アソシエーション(日本地ビール協会)の小田良司会長が亡くなられました。

 

http://www.beertaster.org/cba0815.html

 

2007年のちょうど今時期、マイケル・ジャクソンが亡くなったときを思い出すほど、驚きをもって報せを聞きました。ジャクソン氏は神様のような存在でしたが、会長はまさに恩人であり「師匠」でもありました。悲しくてなりません。

 

モルトウイスキーからビールに興味を持ち、夫婦二人でビアテイスターを取ったのが1998年。そのころ夫婦でビアテイスターはまだ珍しかったためでしょうか、いろいろ可愛がっていただいたように思います。

 

 

​ 会長からサインを頂いた『ビアコンパニオン』。読みすぎてボロボロです。

 

ジャッジの勉強をし始めたころ。デュッセルドルフ・アルトのジャッジングをやったとき。オフフレーバーなどとくに問題は感じずに高めの得点を付けたところ、いっしょに採点していた会長は低評価でした。なんでですか?と訊くと「現地のアルトはこんなんやない。もっと瑞々しいんや」と仰る。「その"瑞々しさ"はどうやって判断すればいいんですか?」と重ねて訊くと「それは現地に行って飲むしかないなぁ…」と。

 

んなアホな!?とそのときは半ば憤ったものです。しかしその後、現地のアルトを飲む機会がやってきました。飲むと、会長がおっしゃったとおり、本当に「瑞々しい」のです。字面や言葉では伝えきれない味はあるのです。それを身に着けるためには経験こそが大事なんだ、と強く痛感しました。

しかし、時間にもお金にも限りがあります。経験や感覚を身に着けることはとても難しいものです。それを補ってくれるのが「知識」なのです。だからこそ、自分は今でも「勉強」し続けています。そのキッカケのひとつは、会長とのこのやり取りにありました。

 

 

 

写真のマイケル・ジャクソンの『ビア・コンパニオン』。これにライプチヒ・ゴーゼの章があります。ゴーゼといえば塩を使ったビールで、本を買ったころはまだまだ未知のスタイル。この本を翻訳をした会長も、体験せずに訳さざるを得なかった、と告白していました。「ゴーゼはまだ日本で飲んだことある人間はほとんどおらん。坂巻さん、ライプチヒに行って来てレポートしてや?(笑)」と冗談を言われたものです。

 

時は過ぎ、数年前から少量ながらも輸入されるようになり、アメリカのクラフトビールの人たちが造ったものも入って来るようになりました。ヤッホーブルーイングも「好みなんて聞いてないぜSorry」シリーズで醸造もしました。ゴーゼが日本にいながらにして口にできるようになったことには、当時を思うと非常に感慨深いものがあります。

 

 


日本地ビール協会は、いわゆる「地ビール解禁」の1994年発足でした。アメリカのビール審査メソッドを日本に取り入れたものが「ビア・テイスター」です。

15年前の「地ビールブーム」が終焉すると、「マイクロブルワリーの暗黒時代」を迎えます。協会も大きな曲がり角に立たされたそうですが、会長が私財を投げ打って協会を存続された、と伺っています。その大きな熱意には心打たれました。

大会社に属さない一般の方にもビール官能評価の習得の機会を作り、ビアスタイルの重要性を確立させました。 「ビアフェス」という言葉を広め定着させたのも、会長のおかげです。日本のビール史において、非常に重要なことを成し遂げた方でした。

 

 

お店をオープンしてから、何度か電話でやり取りしたことはありましたが、結局、会長に店内をお見せすることは叶いませんでした。それが残念でなりません。

 

会長、本当にありがとうございました。これからも日本のビールの発展を見守っていてください。

 

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